国民民主党千葉県議会議員天野ゆきお

千葉県議会議員 天野ゆきおオフィシャルサイト

https://amano-yukio.jp/
県政一新 千葉県議会議員天野行雄
書籍紹介
医療過疎が深刻な千葉県の「地域医療と少子化対策」を分析・研究した書籍。県議会議員として、天野が出版に参画。
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天野ゆきおプロフィール

Profile 

1960年 千葉県銚子市にて出生(1月13日)、現在58歳 こども時代について 
1978年 東電学園高等部卒業、東京電力(株)千葉支店に入社
                学生時代について サラリーマン時代について 
2000年 連合千葉副事務局長(政治・政策担当) 組合活動について
2003年 千葉県電力総連事務局長 
2005年 銚子マリーナトライアスロン大会実行委員会事務局長 トライアスロンについて
2006年 千葉県トライアスロン連合副理事長
2007年 千葉県議会議員初当選 (現在4期目) 政治を志したきっかけ 
2010年 神奈川大学大学院法学研究科入学、行政学(地方自治)と労働法を中心に研究
2013年 神奈川大学大学院 法学研究科 修了(法学修士)
2018年 放送大学(社会と産業コース)卒業、 生涯学習の一環として生活と福祉コースを
     継続して 履修中
2019年 千葉県議会議員選挙4度目の当選

現  職

千葉県議会議員(現在4期目) 2007年4月~
国民民主党千葉県連合会 幹事長 2018年3月~
連合千葉議員団会議 会長 2014年11月~
千葉県民社協会 会長 2013年4月~
極真空手道千葉県選手権大会 大会顧問 2010年4月~
千葉県トライアスロン連合 副会長 2011年1月~

公職歴等

千葉県会計監査委員

千葉県職業能力開発審議会 委員  
労働者派遣事業適正運営 協力員 

趣  味 トライアスロンについて

トライアスロン、ランニング、自転車旅行、旅、オートバイツーリング、釣り、カメラ、
山歩き、熱帯魚、園芸、等


こども時代について


▲故郷銚子の海に向き合うと力が湧きます。

館山生まれの祖父は銚子で漁師。両親は共稼ぎで、父は建設会社の電気部門のサラリーマン、母は船員組合の事務職でした。今では共稼ぎ家庭は普通ですが、当時は少なく、その様な家庭の子は「鍵っ子」と呼ばれていました。共稼ぎでしたが家計は厳しかったようです。そんな状況でも両親は苦労しながらも、私に他の家庭の子どもと同じような環境を与えてくれたことを感謝しています。
私は小さな頃から、プラモデル作りやラジオなど電子機器の製作が大好きで、部品を買い集めては、時間が経つのを忘れて組み立てていた思い出があります。小学校の高学年の時に、母へNHKのラジオ技術の通信講座を受講してみたいと告げたら金銭的に難しいと言われました。昔、父が受講した通信講座の本があったみたいと言われ確認したら、驚いた事に私が受講したい講座を過去に父も受講していた事が分かり、親子だな~と実感しました。
また、授業では体操と家庭科が大好きでした。興野小学校の時、銚子半島駅伝に駅伝の選抜選手として出場し、体操部にも入部していました



学生時代について


▲ギターに夢中になった青春時代。

興野小学校から銚子第四中学校に進学しました。その頃流行っていたフォークソングが大好きで、ギターを抱えてフォークソング同好会に入部していました。
多感な青年期には、誰でも悩みや苦しみもあったと思いますが、そんな時には海まで自転車で行って、半日太平洋を眺めていた時もありました。今でも海を眺めていると、あの時の銚子の海を思い出します。
高校は東京の日野市にある、東電学園という企業内高校に進みました。全寮制でしたので、初めて実家から離れて生活をしました。学校には奨学金制度があり、その中から寮費や食費などを全て支払うことができましたので、家庭へは余り負担をかけずに済みました。 部活は、体育会系ではバレーボール部とその後アーチェリー部、文化系に部活はコンピュータ同好会に入りました。その時利用したコンピュータは、ミニコンでしたが、そのCPUの性能は10年前の携帯電話のCPUにも負けるでしょう。プログラミング言語は、科学技術計算用のフォートランを利用していました。現在のC言語とほぼ同様です。
日本でも小学校にプログラミング教育が導入されますが、論理的思考力や創造性、問題解決能力といった「プログラミング的思考」を学ぶことは重要だと考えます。
高校3年生の夏には、自転車を担いで電車、青函連絡船と乗り継ぎ、函館駅に降り立ち自転車を組み立て、北海道を一周してきました。基本的には宿泊は事前に予約して無く、シュラフ一つ持って駅前で野宿しながら自転車一人旅をした旅の経験は、自分の人生観にも大きな影響を与えた一つだと思います。今でも北海道の道路を走行していると思い出がよみがえってきます。帯広から上川に抜ける国道273号線はその当時は舗装されてなく、さらに上り坂なので自転車のスピードは出ず、「熊注意」の看板に恐怖をあおられました。



サラリーマン時代について


▲よく働き・よく遊んだサラリーマン時代

高校卒業後、社会人の第一歩は東京電力(株)千葉支店千葉営業所への配属でした。その後、実家のある銚子営業所へ転勤をしました。千葉市は、私の社会人としてのスタート地点であり、その地に戻り政治家としての新たな人生を再スタートしたことも感慨深いものです。
会社での部門は配電で、配電線路の保守・運営の仕事をしていました。仕事は高所での柱上作業が中心でしたが、特に台風などの荒天時に配電線事故が発生することが多く、危険と隣り合わせの仕事でしたが、非常にやり甲斐のある職場でした。
電力マンの意識は高く、大切な電力設備をしっかりと護り、お客様に安定した電力供給を維持する事を常に考えていました。台風の時には、呼び出しもしていないのに自意識の中で自然と社員が会社に集り、停電の復旧工事の対応を行うという、ロイヤルティの高い職業集団でした。
社会人となり、学生の時以上に様々なものに興味を持ちました。極真空手・スキー・テニス・釣り・サーフィン・オートバイツーリング・サイクリング・キャンプ・山歩き・カメラなどなど、次々に挑戦しました。二十歳前から銚子スキークラブに所属していたのですが、社会性の成長は、このクラブ運営が大きく影響しているのかもしれません。様々な意識や価値観を持った人間が結集する市民団体の運営は、大変だと感じましたが、組織がまとまることにより発揮できる力の大きさや、みんなで目標に向かって実現する達成感は、仕事だけでは経験できない貴重な体験でした。
26歳頃には、オートバイツーリングとキャンプを中心に様々なスポーツを楽しむ「ベアーズ・アウトドアー・クラブ」を設立し、会長として様々な事業を計画し、週末にはクラブ行事を開催しました。当時は当直勤務が月に4~5回あり、開催日の調整が難しかった事を振り返ります。 自分が楽しさや価値観を感じるものは、友達にも是非経験してもらいたいという思いが大変強かったと思います。楽しい仲間たちに囲まれ、豊かで幸せなサラリーマン時代だったと思います。



組合活動について


▲連合千葉時代 オフィスにて

東京電力(株)銚子営業所で勤務している時に東電労組の組合役員になりました。
当時は仕事も忙しく、正直言って役員になるのは避けたかったのですが、職場の誰かがその役割を務めなくてはならず、その任につきました。共済部長として組合活動を継続する中で、組合役員が果たす役割の重要性と組合員の生活を支える共済事業にやりがいを感じるようになりました。
それからは、銚子支部の書記長から東電労組千葉総支部の専従役員、そして2000年には連合千葉へ副事務局長として派遣されました。
組合の原点は相互扶助にあり、組織を通じてお互いに支え合う仕組み作りが肝要です。また会社側との労使交渉により、労働安全の確保をはじめとする様々な労働条件向上に向けて取り組み、その結果を出せた時は安堵感がありました。
ストを敢行し労働条件闘争を行う労働組合の活動について、厳しい見方をする市民の方も居ると思いますが、ストも会社側との交渉の一部です。良い悪いは別として日本国憲法に集団的交渉権として認められる労働者の権利です。私たち電力事業にはスト規制法が適用され、電源ストは行えないこととなっています。
労働組合の社会的な活動として、平和な社会を築く事や働く者の代表として政策提言活動を通じて、全ての働く者の労働条件や生活条件の向上を目指すこと。更に安全で安心な地域社会を作ることが重要な役割だと私は考えます。




政治を志したきっかけ


▲はじめての選挙戦・出陣式

随分前から組合活動を通じて政治家との接点はありましたが、自分が政治家になるという意識はありませんでした。政治の必要性を強く意識するようになったきっかけは、2000年から3年間連合千葉への派遣された時です。
連合千葉では、政治・政策担当として、千葉県や市町村に対して政策提言を行い、県民生活の向上を目指し取り組んでいました。また社会的な問題の解消には国民運動も必要で、駅頭での宣伝や街宣車を利用して市民の皆さんへの宣伝活動を推進し意識啓発に取り組んできました。活動では、連合千葉が推薦する議員と連携する機会も多く、政治を通じての社会課題の解消の必要性や議員の意識の高さも感じていました。
当時は、小泉総理が全盛期の時代で、新自由主義的な政策が推し進められていました。規制緩和の中では、雇用・労働に関連する改革も行われ、このまま進むと日本が崩壊するという危機感を持ちました。 この流れを止めるには、自分が政治家となり現場で対応することが必要だという強い思いを持ちました。また、連合の専従者の立場で様々な労働組合の労働交渉の経過を経験しましたが、中小企業の労働条件は労働基準法をはじめとする法律や条例に頼るところが多く、政治の世界で解決する必要があることを痛感しました。
この様な環境に身を置いていたことが、現在、自分が政治の世界で活動する原点です。
丁度、私が連合千葉から東電労組に戻った時期に、先輩の加賀谷千葉県議会議員が勇退することになり、後継として私がその役割を果たすことが持ち上がりました。県議への挑戦は当然不安感で一杯でしたが、加賀谷県議の4期目の選挙事務所の所長を務めた経験や連合千葉での政治経験を踏まえ、その役割を果たすのは今しかないと判断し挑戦する決意を固めました。
選挙戦では、多くの皆さんのご理解とご支援により当選を果たし、千葉県議会に送っていただきました。今もその原点を忘れることなく取り組みを進めています。




トライアスロンについて


▲36歳のとき、佐渡フルトライアスロン完走

私が25歳を過ぎた頃に、隣町で波崎トライアスロン大会が始まりました。この大会はハーフの大会であり、簡単には挑戦できない距離でした。また、ハワイのアイアンマンはフルトライアスロンの大会で、スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195kmとういう設定で大会も盛り上がってきており、自分の挑戦心(チャレンジ・スピリット)をくすぐられました。
私もスキーやテニスなどスポーツは継続してやっていましたが、ランニングでは最長でも10km程度しか走った経験はなく、この距離を走破するだけの自信はありませんでした。 千葉県内で行われているトライアスロンはオリンピックディスタンスという設定で、スイム1.5km・バイク40km・ラン10kmという距離で大会が行われます。日本で数カ所でしか行われないフルトライアスロンは非常に過酷な競技であり、精神面でも肉体面でも一から鍛え直さないと、完走は難しいことは、挑戦する前からわかっていました。
そこで、一大決心をして29歳の時にはタバコを止め、旅の友であるオートバイを売って、そのお金でロードレーサーを購入し、フルトライアスロンの完走を目指したのです。 ところが、はじめから自分で完走へのハードルを上げてしまいました。それは30歳で挑戦した筑波マラソン(フルマラソン)です。左膝に激痛がはしりながらも何とか完走はしたのですが、その時に左足の半月板を損傷してしまい、それが原因で後々まで大きな影響を与えてしまいました。
きつい練習をして自分を追い込みたいのですが膝が痛くて出来ません。その痛みをごまかしながらトライアスロンの練習を積んできたのですが、更に条件として加わったのが、組合専従役員となり銚子の自宅から千葉市まで毎日通勤する事となったことです。練習環境は更に厳しくなり、習時間を確保するのも難しい期間が続きました。それでも何とか時間をやり繰りしながら、土日の出勤時には銚子から千葉まで自転車で出勤するなど工夫を重ね、ハーフタイプの試合を10回程度経験し、36歳(1996年)で念願の佐渡フルトライアスロンに参加しました。その大会では練習不足と膝痛から、もがき苦しみながら何とか完走を目指していたのですが、ランの途中から小雨となり、火照る体を適度に冷却してもらいながら何とか走りきることができました。朝5時のスタートからゴールまでの時間は13時間40分52秒、815人の完走者中572番目という結果でした。途中でリタイヤした人も100名位います。完走後、多分感動し号泣すると思っていましたが、他人の努力は感動しますが自分の努力は当然という気持ちがあり感動がなかったのか、疲労困憊と達成した充実感でゴール後芝生に転がって夜空を仰いでいた記憶があります。



▲代表的なイベントのひとつとなった、
銚子マリーナトライアスロン  

私の故郷の銚子市でも、2004年から「銚子マリーナトライアスロン大会」が開催されており、今年の開催で14回目の開催となります。大会名は銚子トライアスロン大会でもよかったのですが、宣伝に銚子にある観光施設名を入れようと言うことになり、この大会名としました。2010年にはゆめ半島千葉国体の公開競技として、トライアスロンが行われましたが、男子は細田雄一選手、女子は上田藍選手と千葉県勢がアベック優勝をしました。
銚子マリーナトライアスロン大会が開催を検討するきっかけは、2003年に銚子有料道路の無料化されるという話を聞き、この道路をバイクコースにして、地元でトライアスロン大会が開催できないかと、トライアスロン仲間の中で持ち上がりました。このメンバーはみんなトライアスロンの参加者として趣味を同じくする仲間で、これまでの大会への参加でお世話になった思いを、大会の主催者側となって恩返しをしていきたい、という強い思いを持っています。
急遽、銚子市トライアスロン協会を立ち上げ、会長には石毛県議会議員、理事長には私天野が就任して、毎週1回は私の家に大集合し、大会開催に向けての議論を進めました。 この大会の開催目的は、スポーツの振興と地域の活性化です。地元で誇れるアスリートを育てていきたい。元気が足りない地域をもっと元気にしていきたい。その思いで大会を企画し開催を目指しました。
しかし、大会を開催するのは容易な事では無く、官庁との交渉やスポンサーの確保など乗り越えるハードルは大変高いものでした。それを可能にしたのは千葉県トライアスロン連合の園川理事長をはじめとする役員の皆さん、稲毛インターの山根コーチや青山コーチ、銚子市役所や地域の諸団体など、多くの皆さまのご理解とご支援の賜です。
今では、参加者も800名を超え、全国でもここまで大きな大会にまで成長する事が出来たのは、トライアスロンを愛するメンバー、地元の千葉県・銚子市を愛する皆さまの力だと思っています。 現在、千葉市稲毛区に住居を構える状況の中で、中々銚子市トライアスロン協会の運営に対する応援は難しく心苦しさを感じています。 銚子で開催するトライアスロンが、少しでも銚子市の発展や地域の活性化に貢献できることを祈念しています。